Saturday, July 15, 2006

形式と内実

 最近、友人ののりぞう氏が、食べ物に非常に飢えているらしい。 と同時に、ある意味での「見た目の格好」を意識する機会も増えているようだ。

今回のこの書き込みは、のりぞう氏へのメッセージ的な意味合いもあるので、 やや立ち入ったことにふれるところもあるが、勘弁してほしい。
のりぞう氏のブログでは、食べ物についての書き込みが豊富だ。 「あれが好きだ、これを食べた」という話が続いているのである。
ダイエットが昂じて倒れたり貧血になったり、また夏バテになったりという話をよく耳にするこの季節、健康的で大いに結構。
ただ、自分の好きなものや食べたいものを他と比べて、一喜一憂する必要はない。

周りの顔色を窺わずに、堂々と本当に好きなものを食べたらいいよ。
「寿司」と言われてウニよりハマチ、「中華」と言われてフカヒレより豚まんが思い浮かんでも、いいじゃないか。
ウニやサメの命がハマチやブタの命よりも格上だということなど、決してない。
大体、実際にハマチはそこそこの味の魚でイクラやウニがものすごくおいしい食べ物だと本気で思っている人が、どれだけいるのだろうか。
僕の記憶をたどってみると、母がスーパーで奮発して買ってきてくれたイクラは確かにおいしかった。
だが海育ちの僕から言わせれば、捕りたてのシャコやボラやアオヤギは、極上だった。
奮発してくれた母には悪いが、しかし母もわかっていると思う。僕の育った海は母も育った海だ。
その海では、イクラはとれない。

味は状況や環境で決まるものだと思う。
ウニよりうまいイワシだって、あるはずだ。
男が一人暮らしの家で侘しく啜るカップラーメンと、登山した山で川の水を沸かして作るカップラーメンは、神が中身を違うものに代えていると信じている。

ウニやフカヒレを至上と思う人たちの気持ちだって、理解できなくもない。
味よりステータスを、内実より形式を食べる人種だ。
だがそういう人たちを見ると、無性に悲しくなってしまう。
僕の悪癖かもしれないが、「本当に味のわからない人」「卑しい人」という差別をしてしまう。
社会的に高価とされるものを食べてニタァーっとだらしなく頬を緩める様を見ると、他人のオルガスムスを見せつけられているような不快感を憶える。
ま、のりぞう氏の周囲の方々はネタとして「安い、高い」と言っていることぐらいは想像に難くないが。
そしてのりぞう氏もエスプリとして、ブログに自分のザマを曝け出しているのだろう。
でものりぞう氏と僕との共通の知り合いには、本気で形式とステータスと評判を食べて満腹する人がいる。
僕とは違う人種ってことで、それはそれでいいけど。

マタイによる福音書6:25から6:34に「何を食べようか、飲もうか、着ようか、思い悩むな」という件がある。
原語で正確には「思い悩む必要はない」という言葉だが、「あれこれ迷わんで、食いたいもんを食え」ってとこか。
真理(聖書では『天の父』だが、宗教に関心のない方は食欲や味への欲と表現しても差し支えない)が必然的に望むことを準備してくれるはず。


 聖書といえば、これもまたのりぞう氏絡み。
最近は「マルコによる福音書」をお読みとか。
抑圧される人々の中から現れ、抑圧された環境のままの人生を送るイエスの言行録やね。

 のりぞう氏には「聖書をみんなはどう通読しているのだろうか」という疑問があるようだが、「通読すること」がそんなに大切なのだろうか。
あまり大っぴらにはできないが、僕は信者になってから聖書を通読していない。
結果的に全てを読んだかもしれないが、連続して最初から最後まで読んでいない。
信者になる前は三度通読した。歴史学を志す上で一度は聖書を読んでおくことが必要だと思ったからだ。

 ところで「通読する」って何だろうか。
日本語の語感からくる印象かもしれないが、「頭から最後まで通して読む」ことに重点が置かれているように思えてならない。
ある宗教の信者はその宗教の啓典を生活の規範とすることが、「信仰する」ということだと僕は考える。
「神がいる、仏がいる、霊がいる」ということを単に認めることが「信仰」ではないと思う。
極論すれば、洗礼をうけたから信者であると、単純に言えないと考えている。
果たして「通読している」人のどれだけが、目にした啓典の言葉の意味ををしっかりと追求して、生活に取り入れようとしているだろうか。
啓典の字面を「目で追っているだけ」の人、自分に都合の良い解釈をして満足し、真の意味を追求しようとしない人、そういう人が大半だというのが、僕が経験してきたことだ。
要するに、「通読する」という形式を追い求め、内実を追い求めていない人が多いということ。
そして「通読した」というステータスを得て、何か達成感を得て自分のランクが上がったような気になるのね。
それが「熱心な信仰」ということの本当の意味なのだろうか。



 食べ物の話に戻ろう。

僕の出身地と、言語や文化の違ういくつかの地域で暮らしてきた。
かなり多くの地域を巡り沢山の経験をしたつもりだが、「国」の数だけでいってもまだ地球の一割にも満たない。
現地語ができる地域であっても、できない地域であっても、現地では大変苦労するものだ。
苦労するという意味では、東京もバンコクも大した差はない。

言語も文化も違うところでも、共通したものということは存在する。
それは、「楽しいこと、嬉しいこと、喜び」だ。
飲んだり、食べたり、歌ったり、踊ったり、遊んだり、そういうことだ。
また、「怒り、悲しみ」というのも共通したものだろう。
罵ったり、殴ったり、殺したり、そういうことだ。
言語や文化というのはあくまでコミュニケーションの手段であって、言葉を使おうと体を使おうと最終的には「心」が通うかどうかにかかっている。

マルコによる福音書6:30や8:1には、イエスがわずかな食べ物で何千人もの人を満腹させる話が書いてある。
「パン五個と小魚二匹から五千人が満腹できる食糧を生み出した、神の奇跡や!」そういう話なのだろうか。

パン五個と小魚二匹は数人分の量の食糧か。
そのまま飢えた五千人に渡すと、争奪戦になるかも知れん。
そして勝ったやつのみが食事をし、負けたやつは指をくわえておかねばならん。しかも殴られたりした痛みも加わった上で。

僕の体験では、食は世界共通の喜びだ。
争奪戦を起こさせるのではなく、みんなでわけること、その心遣いが本当に人の心を満足させると思う。
五千人の心をあったかくすること、これが本当の奇跡なんじゃないの。

では「信者」はそれを見習いましょうよ。
多くの人の心を満足させることを生活の規範にしましょうよ。
同時に、現実に足りないもの、分ける食糧の少なさにも気づきましょうよ。そして必要なものを備える努力をしましょうよ。
「イエスが五千人を物理的に満腹させたスーパースターだ!」っていうだけの下らん話に貶めて、しかもそれを信じてどうするの。

 のりぞう氏には、ただ頭から終わりまで読み通すよりも、一部でもいい、真剣に向き合ってほしい。


 食は喜びだ。
イクラも喜びやけど、ハマチも喜びや。
ハマチも買う金がないなら、コンビニで豚まんの喜びを買ってもいい。
情報誌のグルメ記事を読んで、何やかの有名店にいったという「形式」を食べる喜びもあってもいい。
(この表現には僕の悪意が含まれているが)
しかし、安くてもめちゃくちゃにおいしい食べ物だって、ある。
それを食べるのも、喜びだ。

 Tokyo Walkerなどに出ている記事をどう読んで、どう活用して、どう生きるか。
それによって、幸不幸というのがある程度決まるように思う。
そういう意味では、聖書も一つの「情報誌」だ。

ま、どう読むかで周囲を巻き込んででほしくはないものだが。

Saturday, July 08, 2006

誰もがみんな知っている

 NHKの「おかあさんといっしょ」を見た。
中西圭三氏作の「ぼよよん行進曲」という歌がどんなものか知る必要ができたからだ。
前座のようなコーナーに、犬の着ぐるみが活躍すると思われる「スーパ-ワン」なるヒーローがいるらしい。
そのテーマソングらしき歌も聴いた。
「スーパーワン」の歌は聴けば聴くほど、「月光仮面は誰でしょう」に似ている。意識してのパロディーだろう。

 さて「月光仮面」、考えてみると偉大なヒーローだ。
月光仮面を一所懸命に見ていた世代は、多分僕の両親あたりの世代だ。つまり僕とは無縁で、実際僕は月光仮面の番組を見たことがない。
しかし「月光仮面は誰でしょう」は一番くらいなら僕でも歌える。
それもそのはず、現在でも時々街角でビラを撒いたり東京タワーに登ったりと現役としてご活躍のようだ。
いでたちは白ターバンに白マスク、白い全身タイツにサングラス。かなり怪しい姿だ。
これでは「月光仮面のおじさんは正義の味方よ良い人よ」とことさらに強調するのもいたく納得できる話だ。
黙っていると警察沙汰になってしまう。
仮面ライダーやウルトラマン、各種の戦隊物のヒーローたちといった尻の青い若造どもは、イケメンなお兄さんお姉さんたちが変身しているようだが、大人の月光仮面さまは「おじさん」なのである。
「憎まず、殺さず、赦しましょう」
慈悲に満ちた大人の貫禄である。